生まれは和歌山です

  • 生まれたときは未熟児で吹けば飛ぶような小さい赤ちゃんだったようです。
    母の実家の和歌山県那智勝浦町生まれ。
    日本一の名瀑「那智の滝」から“智子”と名付けられました。
  • 子ども時代は勉強より遊ぶのが大好きで男の子とよく探検していました。
    教科書よりマンガが大好き。その頃の夢は「歌手」「俳優」と、身の程を知らずに思っていました。
  • 大阪府貝塚市で中学2年生まで暮らし、横浜へ転居しました。今でも言葉は関西弁と横浜弁がまざっています。

中学2年生のとき。
貝塚市の中学校から横浜市に転校する際の記念写真

社会人となり、よき伴侶に恵まれました

  • 短大を出て20歳で海運会社に就職、社内報を担当しました。世界の港に荷物を運んで、半年ぶりに帰国した船に、カメラやテープレコーダーをしょって乗り込んでいました。
  • OL時代は山岳部とヨット部に在籍、北アルプスにはほとんど登りました。今は50段くらいの階段でもフーフー言ってますが(笑)。ヨットは江の島によくいきましたが、半年くらいで挫折しました。(準備と後片づけがとてもつらいのです)
  • 友人の結婚式で出会った人に私が一目惚れ。アタックし続けて9か月後にハートを射止めました。
    もうすぐ25歳になる、という日(1972年9月3日)に結婚。彼は私のひとつ年下です。
  • 結婚してから兵庫県に在住。最初は川西市久代の新婚者用社宅に住みました。
    友だちがたくさん出来て、みんなで力を合わせて子育てを頑張りました。子育てに追われながらも、何か資格を取ろうと一念発起。
    ピアノなど初体験でしたが“保育士”の国家試験に挑戦。ほぼ独学で、友人や夫に助けてもらい3年かかって合格しました。嬉しかった!


OL時代は山登りに夢中。22歳のとき。
北アルプスのある山頂にて

宝塚でいろんな活動に取り組みました

  • 結婚から8年が経ち、住み慣れた社宅をでなければならず、宝塚市安倉南にローンでマンションを買って暮らし始めました。長男3歳、長女10か月のときでした。
  • 安倉では集会所を借りて“キンダールーム”を設立。当初の予想に反して大人気となり“キンダーっ子”なる言葉まで出来ました。子どもの自主性を大切にして“楽しくて、楽しくて仕方がない”場所づくりをしました。設立から32年経た現在も3代目の主宰者が続けています。この時の経験が今でも「子どもはすばらしい存在!」という私の基本理念になっています。
  • 1985年に当時の文部省から出された通達「学校給食の合理化」を受けて、おいしくて安全な宝塚市の学校給食を守るため、友人たちと「宝塚学校給食を考える会」というグループを立ち上げました。“食は命をつくる”という思いは、私の活動の原点です。

  • 社宅で暮らしていたころ。
    仲間で力を合わせて子育て真っ最中

  • 1987年。夫の転勤に伴って家族で熊本に引っ越しました。転勤直前に夫の母がくも膜下出血で倒れ、逝去するまでの2か月間一人で姑を介護しました。熊本にはアルツハイマーの義父もともに移り、介護を5年間しました。介護の苦労は身をもって体験しています。
  • 熊本でもPTA、給食の活動をし、「熊本市体罰をなくす会」を作り、子どもたちを守るために行動。市民活動や介護をしながら、熊本大学に通い、文学や社会学も学びました。
  • 熊本から宝塚に戻り、父とインドネシアに旅行。それが縁で、乾燥糸こんにゃくを販売する会社「トレテス」を設立。

40歳のころ。
熊本でも学校給食の活動を頑張りました

震災ボランティアを機に衆議院議員に

  • 会社経営が「さあ、これから」という1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生。災害ボランティア団体「1.17その後の会」を友人8人に呼びかけて結成。リサイクル家電を約700台、仮設住宅の被災者に届けました。被災地で被災者がボランティアすることの大切さを学びました。これは東日本大震災への支援活動に大変役立ちました。
  • 1996年。当時、社民党の党首をしていた土井たか子さんに「衆院選に立候補してほしい」と頼まれ「市民の代表として被災者支援法を作るために」と決意し立候補、当選しました。1年半後、この国で初めて、議員立法で「被災者生活支援法」が成立。ホッとしたのも束の間、次々と仕事が舞い込みました。ハンセン病問題、薬害ヤコブ病、在外被爆者支援、そして介助犬との出会い。2003年までの2期7年の間にすべての問題は解決に向かいました。任期中、私なりに精いっぱい当事者のみなさんとともに頑張り切ることができました。

衆議院時代(2000年頃)。
武庫川ダム問題で中村敦夫さん、
土井たか子さん、ふじき洋子さんとともに視察